菜の花の沖縄日記 坂本菜の花著
2020-08-08 (土)
石川県から中学卒業後に沖縄県の無認可学校「珊瑚舎スコーレ」に進学。
その時期の日記と先生の対談などをまとめたもの。
スコーレには小学生から高校生までの年代の子供たちと、夜間中学の80歳を越えるおじいたちが通い、体験重視のユニークなカリキュラムで構成され、時には様々な年代の数十人が一緒の授業に参加するなどの独自の学びの場を作り出している。
小学校にも行かせてもらえず、漁師に丁稚奉公のような形で身売りされて苦労して生きてきたあるおじいは、ずっと「海は二度と見たくない」とまで言って海に対してトラウマを抱えていたが、学校生活を送る中で心の変化が起きて、ある時に皆で魂魄の塔に行った後、海を見て一人離れてボロボロと泣き「ああやっぱり、俺は海に育てられたんだな」と思えたと。
「漢字が書けるようになったとか、算数ができるようになったとかではなく、学校は人にこういう変化をもたらすところなんだとわかった」、と先生が言っています。
また、国家が独占している「学び場」を作る権利は、本来「学び場を作る側」が持たなければならないと主張しています。
政治が教育を思いのままにしているようでは、未来はないということでしょう。
沖縄戦の悲しさを語った文章もありました。
戦時中に避難場所となった自然の洞窟「ガマ」の話です。本書から
チビチリガマには住民140人が避難し、そのうち83人が集団自決(集団強制死)しました。
一方、シムクガマでは誰も死にませんでした。
この違いは何か。
ガマの前まで米軍が来たとき、どちらも中は混乱状態でした。
米軍に捕まれば男は銃剣で刺されて戦車でひかれ、女は暴行されて殺されると教えられていたからです。
でもシムクガマにはハワイ帰りの男性が二人いました。
彼らは「米軍はそんなことはしない」と思っていましたが、敵国語を話す者はスパイと見なされ、信用されていませんでした。
しかし最後は、同じ殺されるなら太陽を見て死のうよ、という彼らの言葉で全員ガマから出て捕虜となり助かりました。
対してチビチリガマでは「生きて虜囚の辱めを受けず」の言葉を信じたのです。
六割が十八歳以下でした。子どもは自分で死ぬことができないので母親が殺したそうです。